モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

いつから「チクる奴」が、正々堂々としている社会になったのだろう

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jbpress.ismedia.jp


「超小型モビリティ」の将来像が見えない、と批判する記事をたまたま見た。

僕は、このテクノロジーについて見識を持っていないので、中身についてコメントしたいわけではない。ただ、僕が、何かあたらしいことをやろうとしている場でいつも思うことをこの記事からも感じたので、書き留めておこうと思った。(けっして記者の視点や主張を避難しているのではない。この記事に触発されて、僕が今ままで感じてきたことを思い出した、と理解して欲しい。)


それは、日本人は、ロードマップとか法律とか「お上のご意向に従う」のが滑稽なほどに好きだな、ということだ。たとえば、法律ができれば、その字面通り従い、法律が整わなければ何もしない。同じ人間が作った法律が、まるで、神からの啓示のように思っている人々。あるいは、他人からの非難を恐れ、小さなリスクさえ取らない人々。


防災・減災、安全に関わることなら、そういうアプローチも必要だろうが、未来の産業を創造する、と威勢良い掛け声をかけながら、自分から行動を起こさずに誰かが指示してくれるのを待っているなんて、まったく矛盾している。


やる理由が完璧に揃っていないとやらない(やれない)国と、やる理由がひとつでもあればやる(やれる)国の、どちらに未来があるだろうか。「石橋を叩いて渡らない」のと、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」のと、どちらが今の時代にあっているだろうか。


もっとも法律は無意味だ、不要だ、と言いたいのではない。法律は必要だが、新産業の分野で必要な法律は、(まだよくわからない)個々の技術やサービスだけを対象にした「付け焼き刃」で「後追い」の法律ではないだろう。必要なのは、もっと根元的で社会全体にかかわるような、人々の考え方の枠組みになるような法律のはずだ。「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」「虎穴に入らずんば虎子を得ず」といった勇気あるスタンスを、体現し、バックアップする思想ともいえる。


要するに、法律などという「形」にこだわらず、「お上」は「下々」のやることに目をつぶり、「下々」は「お上」を適当にあしらう。それが、個人が独立し、自分自身で生きている実感のある、健全な社会だと思う。(それが、現在の「お上」の言葉を借りれば、「一億総活躍社会」だと僕は解釈している。あまり好きな言葉ではないが…。)


そして、「下々」の中には、「お上」にチクる最低な人間もいるのが、さらに残念なことだ。「足を引っ張る」日本の社会の息苦しさ。そういう、嫉妬から「チクる」人々が、逆にチクられる社会こそ、健全な社会だと思う。小学校の頃、「言いつけ魔」はみんなに嫌われたはずだ。そんなことも忘れた情けない大人を、子どもたちはどう見ているだろう。それにしても、いつから「チクる奴」が堂々と正義のヒーローのような顔をする社会になってしまったのか…。


本当の問題は、法律や行政にあるのではなく、この社会の空気にある。それが一番、悲しく、恐ろしいことだ。