モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

人間の理性は感情に勝てない(場合もある)

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上の絵は、錯覚(錯視)の代表例だ。AとBの色は実はまったく同じ。でも、人間の目には、Aが濃く、Bが薄く見える。「AとBはまったく同じ色だ」と知った後でも、やはり同じ色には見えないから、こんなに不思議な事はない。

解説によれば、Bのマス目は円柱の影にあるから、物理的に暗く見えるはず。これを人間の脳は無意識に補正して、「白」に戻してしまうのだ、と書かれている。ただ、この絵の円柱のある部分を除外しても、やっぱりAとBは同じ色には見えないから、それだけではないようだ。
おそらく、白黒の市松模様(チェッカーボード)の規則性から、「ここは白のはずだ」という無意識の補正が働いてしまうのではないかと思う。

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錯覚のメカニズムはともかく、この絵が教えてくれることは、人間はまわりの環境によって見えるものが変わる、ということだ。そして「神の目から観た真実」、すなわち、「客観的事実」をいくら脳の理性の側が納得していても、「主観的事実」を主張する知覚には、けっして勝てないのだ。ここで知覚とは、感性・感情と言い換えてもいいだろう。

この事実には、ちょっとした絶望を感じざるを得ない。なぜなら、現代人は、「話せば分かる」ということを民主主義の根底にある真理だと信じているからだ。理性と感情の乖離は、「いくら話してもわからない」という状況は存在するのだ、という別な真理を突きつける。これは、感情に対する理性の敗北と言える。

どうしても分かり合えない時、理性だけでは解決できない問題があるということを覚悟しておかねばならない。それを解決しようと思うなら、その人間がおかれている環境を変えるしか手は無いのだ。

ところで、その「変えるべき」環境がなんであるかは、常に理性でわかるものだろうか。今のところは、そう信じたい。なぜなら、もしそれさえ「錯覚」だとしたら、本当に絶望してしまうからだ。

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<追記:2015/10/31>

そもそもこの問題に関心を持ったのは、最近話題になった下の画像がきっかけだ。このドレスが白と金にみえる人と、青と黒に見える人がいる、という事実は、大きな驚きだった。それまでは、意見や思考の相違は、同じものに対する「解釈」の違いであって、考えは人によって違っても、その共通認識となる事実は変わらない、と信じていたからだ。

しかし、この写真は、物理的には同じものであっても、人によって異なって見えている、ということを教えてくれる。これは、解釈の前提となる、人が知覚する「事実」は、人によって違うのだということを意味する。

このことは、色彩に関するニュートンゲーテの考え方の相違を連想させる。「色」というものは、人間の存在に関係なく絶対的に存在するものなのか、あるいは、人間が知覚し解釈することで初めて色が存在するのか、という相反する考え方だ。

このようなことは、今、開発が進められている「人間のような人工知能」にとって、けっこう大きな問題になるかもしれない。未来の人工知能は、AとBを同じ色と見るのか、違う色と見るのか、これもまた、人工知能を開発する研究者の考え方によるのだろうか。

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