モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

岡本喜八監督「肉弾」が教えてくれたこと

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今日、いつもより早めに自宅に帰って、なにげなくテレビをつけると、岡本喜八監督を取り上げた番組をやっていた。岡本監督が、今、若者の間で再評価されているという。

岡本喜八、と聞いて僕が思い出すのは、大学生の頃見た「肉弾」だ。


大学生として京都に住んでいた頃、下宿のすぐ近くに「京一会館」という伝説の名画座があった。一乗寺商店街のスーパーマーケットの横の狭い階段を上がっていくと、京一会館の小さな窓口があった。

大学の近くにある喫茶店でカレーライスを食べて、京一会館のチラシをもらって映画を観に行く、というのがお決まりのコースだった。そのチラシは「割引券」になっていて、もともと安い名画座に、さらに安く入ることができたのだ。(噂では、その喫茶店のマスターは、京一会館のもぎりのおばちゃんの息子だということだった。だから、その喫茶店のチラシを持って行くと、おばちゃんは「いつもありがとうね」と言って、他の割引券よりさらに安くしてくれた。たしか400円か500円か、そんな料金で入れたと思う。)

京一会館ではたくさんの映画を観た。その中で、今でも印象に残っているのは、案外、あまり期待せずに観た映画だったりする。岡本監督の「肉弾」もそのひとつだ。


「肉弾」を観たのは、岡本喜八特集と銘打った3本立て興行だった。「近ごろなぜかチャールストン」「ブルークリスマス」「肉弾」の3本立てだ。今、ネットで調べると1984年の2月の興行のようなので、僕が2回生の終わりごろだ。(そんな情報までネットにあげてくれている方に感謝!)

実はお目当ては「近ごろ…」だったのだが、一番印象に残ったのは、まったく予備知識もなく観た「肉弾」だった。


「肉弾」は、青春映画であり、喜劇であり、戦争映画だ。低予算の自主制作映画のような作り(岡本監督が自費を投じて作った映画だったことを、後で知った)で、ある意味愚直で、シンプルなストーリーなのに、なにかが心のなかに深く突き刺さった。「シンプルな」と書いたが、それは見かけであって、一皮むけば言葉では表現できない、深い思いがあることを感じた。

それを無理して言葉にするなら、世の中は深刻で馬鹿げているということ。戦争は悲劇であり喜劇であること。人間は複雑で単純だということ。そんな矛盾と皮肉に、大学生だった僕はリアリティを感じた。


当時、何のために生きているのかなど考えることもなく、今日と同じような明日が来るのを当然だと思って過ごしていた僕には、戦争はまったく無縁のものだった。自分が戦争に行くということは想像もできなかったし、想像する理由もなかった。「反戦」とか「戦争反対」なんて叫んでいる奴は、時代遅れの「ださい」奴だと思っていた。


でも、今の学生たちは、全く違う世の中に身を置いている。

少なくとも社会全体としては、今のほうがさらに豊かになった。でも、心のなかには、あの頃よりずっと明瞭な将来への不安があるのだろう。今日と同じ明日は、もしかしたら来ないかもしれない。そんな、30年前にはなかった不安が、今の若者にはリアルになりつつある。


岡本監督が戦争映画に込めたメッセージは、かならずしも評価されてきたわけではない。脚光を浴びたのは喜劇や娯楽の側面であって、ヒット作を連発した手腕は、一流の「エンターテイナー」として賞賛されてきたものだ。しかし、その華やかな外套をはぐと、体には無数の傷がある。戦争体験者としての強い思いがある。

昨日のテレビ番組で大林宣彦監督が言っていたように、「肉弾」は、その思いがもっとも強くあらわれた、もっとも岡本喜八の素顔に近い作品かもしれない。

戦争とは無縁の学生生活だったからこそ、あの時、岡本監督の映画に触れられたことに感謝している。僕たちや僕たちの少し下の世代が、もし岡本監督のような戦争体験者のメッセージにもっと触れる機会があったら、戦争というものに対してこんなにも鈍感にはならなかっただろう。


いくら頭が良くても、たくさんの「知識」を詰め込んでも、ただ自分で考えているだけではわからないことはたくさんある。たとえば、映画を通じて体験者のメッセージを世代を越えて受け取ることも、人類のすばらしい英知なのだ。

生身で体験し、真剣に考え抜いた人の思いは、何ものにも代えがたい。そういうものに触れることで、はじめて本当に賢く、謙虚になれる気がする。