モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「政治のことを語るのはやめておこう」と思う社会は、なにかがおかしい

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今、日本は、さまざまな問題に直面している。それら個別の問題はそれぞれ重要で、問題のとらえ方や解決策について異なる意見をもつことは、ある意味で健全だと思う。「その問題の、どこが問題なのか」を議論していくうちに、何を評価基準にすべきなのかという認識が国民の間ですこしずつ共有され、それにもとづいて是非の判断をくだす。それが「熟議」であり、民主主義の根幹だとおもう。


ただし、ここには重要な前提がある。議論に必要な情報が、国民の間で十分共有されている、という前提だ。


残念ながら、この重要な条件が失われつつあるのではないだろうか。たとえば、「報道の自由度」ランキングで日本が世界61位に後退したことは、その重要な警鐘のひとつだろう。この記事をみて僕は、できればそうあってほしくない、と思っていた現実を目の前につきつけられた思いがした。「ああ、やっぱりそうか」という失望感と危機感だ。


今、もっとも恐ろしいのは、手に入る情報が偏り、あるいは、隠蔽され、僕たちが国民が疑心暗鬼になって萎縮してしまうことだ。なぜならそれは、あらゆる問題の解決をより困難にし、僕たちを誤った方向に(一部の人にとってのみ都合のいい方向に)導くからだ。


たとえば、ランチタイムに、あるいは、Facebook上で、政治のことについて語るのを躊躇していないだろうか。原子力発電や特定秘密保護法集団的自衛権について、自分の意見を公にするのをためらっていないだろうか。もし、そんなふうに、僕たちに深く関わる問題であるにもかかわらず「政治のことを語るのはやめておこう」と思っているとすれば、この社会は、何かがおかしい。そんな社会が幸福を実現できるとは、僕には到底思えない。


日本人がほとんどが「パノプティコンの囚人」にならないうちに、今、できることはあるはずだ。