モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

伊坂幸太郎「3652」

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伊坂幸太郎のエッセイ、「3652」を読んでいる。日曜日の新聞で文庫本化の広告を見て、「これは読まねば!」と神の啓示めいたものを感じて、Amazonで購入したものだ。


そう書きつつ、実は伊坂幸太郎の小説はゴールデンスランバーラッシュライフ」 (注)しか読んだことがない。映画化された作品も「重力ピエロ」を観ただけだ(他にもあるかもしれないが、少なくとも「伊坂作品」と認識してみたのはこれだけだ)。ただゴールデンスランバーラッシュライフ」を読んだときの印象はとても強く残っている。緻密な構成と洗練された(おそらく計算された)文体が素晴らしいのはもちろんだが、そういう分析的な理由ではなく、とにかく小説を読んで、「僕はこの人のことが大好きだ」と思った。(そう思ったのになぜ他の小説を読んでいないかというと、そもそも最近小説をほとんど読んでいないからだ。)

ゴールデンスランバー」を読んだ時、この人はそうとう聡明で、クールな人だと思っていた。しかしエッセイ「3652」を読むと、ちょっととぼけた、肩の力の抜けたところもある人なんだとわかる。それは僕にとってギャップであって、ギャップではない。なんというか、表向きはギャップなのだが、「ああ、伊坂さんてこういう人なんだね。意外だけど、わかる」という感じなのだ。そういうギャップがあるのが僕にとって「伊坂幸太郎」らしく、そういうギャップを自然に作ることができるほど、やはり聡明な人なんだと思う。


伊坂幸太郎のことを「大好きだ」(なんども書くと怪しい感じがしてくるが、けっして恋愛的な感情ではない)と思ったのは、作家や人間としての素晴らしさだけでなく、この人が自分にとても似ている、と感じたからだ。人前で話すのが得意ではなく、人に喜ばれるようなことを言って「うまく出世する人」ではない。いわゆる「政治的」な力に頼ろうとしない。反権力や「民主化」の旗をふりかざすのでもない。物静かな一人の傍観者として、軽妙に、しかし、たしかに自分自身で生きている。すべて想像にすぎないが、少なくとも僕にはそう感じられた。そして、そういうところがすこし似ている、と思ったのだ。今や大作家の伊坂さんに「似ている」なんていうと、ファンの人たちから「なんて不遜なことを!」と怒られるかもしれないが、そう思ったのだから許してください。


それで、昨夜、「3652」を読みながら、隣にいた妻に「僕は伊坂幸太郎と同じタイプの人間だと思う。きっと僕にも伊坂幸太郎のような小説が書けるに違いない!」と言ったら、鼻で笑われた。

すこしショックを受けてふたたび文庫本に目をやると、緑の帯の上にある「幻の掌編2編(を収録)」という文字が目に止まった。「掌編…って『ショウヘン』って読むのだろうか。いったい、どういう意味なんだろう?」

やっぱり、僕には小説は無理なようだ。



(注)ちょっと悪い予感がして、妻に「僕が読んだのは『ゴールデンスランバー』だったよね?」と聞いたら、「なに言ってるの。『ラッシュライフ』でしょ」と間髪言わずに返された。そりゃ、鼻で笑われるわけだ。