モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「できない」と言うこと

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「それはできません」ーーーーーーーーーーー。

今まで、この言葉に何度となくであってきた。会社のスタッフ、仕事を依頼しているパートナー、私的な相談相手。そのたびに、失望し、落ち込み、時にはいらいらしたり、怒りさえ感じることもあった。


なぜ、そんなに簡単に「できない」というのだろう。僕はそう思い続けてきた。でも、ある時、ひとつの疑問がおきた。人は「できない」という言葉をいったいどんな意味でつかっているのだろうか、という疑問だ。


「できない」という言葉のひとつめの意味は、「自分にはその能力がない」というものだろう。時間やお金などの外的なリソースも含め、「今の自分には」できない、という意味だ。たとえば、音楽の素養がない人が「バイオリンを弾くことはできません」と言ったり、貧乏な人が「家を買うことはできません」というような時だ。しかし、今現在は能力的に「できない」状態にあっても、そのことをやろうと思って、勉強したり努力したりすれば、将来はできるものも多いと思う。つまり、できる・できないの線をどこに引くかは、多分に主観的だ。


2番めの意味は、「(少なくとも現時点では)世の中の真理として絶対的に不可能」だというもの。たとえば「1時間でアメリカに行くことはできません」とか、「死んだ人間をよみがえらせることはできません」というのは、これにあてはまる。ただ、誰が見ても明らかなことはそうそう多くはなく、日常の事物について、「絶対的に」語るのはとても難しい。「絶対にできない」ことを証明するのは、本来、膨大な労力が必要だ。この意味で「できない」という言葉を使うのは、科学者が論文を書くのと同じくらいたいへんな仕事で、それ相応の責任をとる覚悟がいる、と僕は思う。


そして3番めには、話し手の「やりたくない」という気持ちの現われがあると思う。「できません」という言葉の本来の意味とは少し違うが、一種の婉曲用法として使われているのではないだろうか。自分の否定的な意見をストレートにいいたくないから、客観的に装った表現を使う。人間の心情としては理解するが、実務的な場所では混乱や誤解を生むだけだと思う。



このように複合的な意味をもつ言葉は、そのことを意識して使わなければコミュニケーションはおかしくなる。実際、日常の会話で「できません」と言う時、話し手の意図と受け手の意図が微妙にずれているのではないだろうか。


たとえば、僕が、まだ世の中ではあまりやっていないようなことを思いついたとする。(それはけっして突拍子もないことではなく、少なくとも世の中の「最先端」と呼ばれる人たちは手をつけているようなことだ。)そして、こんなモノを作ってみたい、と会社のスタッフやパートナーにいうと「それはできません」と返ってくる。

その時、僕は「世の中では他にやっている人もいるんだから、できないわけがない」と思う。絶対的な真理として「できる」とかんがえる。しかし相手は、自分はやり方を知らない、あるいは、自分は忙しくてそんな時間がない、つまり、自分の現在の能力の視点で「できない」といっている。あるいは、やりたくない、と思っている。発言の背後には、今はできない、あるいは、やりたくない。そして、今から勉強も努力もする気はありません、という意味がある。そのことを双方が理解しないまま会話を進めているから、大きなすれ違いがおきてしまうのだ。


そして最近気づいたのは、話し手自身が、一体どの意味で「できません」といっているのかを自分でもわかっていないのではないか、ということだ。「(自分に能力がないから)できない」と言いつづけているうちに、しだいに、それが自分の中で「(絶対的真理として)できない」にすり替わっていっているように思える。

つまり、「できない」という言葉は、その言葉を口にする人の視野を狭くし、能力を制限してしまう。ひとりよがりの偽の真理におぼれはじめると、その外にあるより広い、本当の世界(絶対的な真理)が見えなくなっていく。絶対定期な真理を語ることは難しい、と上に書いたが、それは、真理を追い求めるのをあきらめろ、ということではない。むしろその逆で、難しいものだからこそ、追い求める姿勢を常に持たなければ、すぐに「ひとりよがり」の世界に溺れてしまう。それは、映画「マトリックス」に出てくる、狭い空間に閉じ込められ、仮想的な「体験」を与えられて生きている未来の人間を連想させる。


仕事をする中で、なんでも安請け合いするのがいいとは言わない。費用や時間の面、あるいは自分の能力や経験からできないことは、そういえばいい。ただその時、単に「できない」というだけではなく、どんな理由で、どの意味で「できない」のかを明確に伝えるべきだ。そうしないと相手との間には溝がひろがるし、もっとおそろしいのは「できない」と言うことで自分の「できる」領域を狭めていく、ということ、そして、それに気がつかなくなることだ。

日本語の曖昧さは時に便利だ。しかし、言葉の曖昧さにたよるうちに、自分の存在自体も曖昧になってしまうことを意識しなければならない。