モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

子どもを大切にしない社会に、未来はないと思う

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先日、高校の同級生の集まりがあった。そこで神戸で小学校の先生をしている友人から「赤ちゃん先生」について教えてもらった。


最初は「赤ちゃんが先生になる」という発想が意外すぎて、「へー、そんなのがあるの」くらいの反応しかできなかった。その後ネットで「赤ちゃん先生」の活動の記事を読んで、少し理解できたように思う。そして、これはなかなか的を得た活動なんじゃないか、と思った。


「赤ちゃん先生」の記事を読んで、自分の経験を思い出した。

僕たち家族ー僕と妻、そして一人息子ーは以前、アメリカで5年ほど暮らしたことがある。企業の駐在の仕事で、息子が幼稚園から小学校2年生までの時期を米国で暮らしたのだ。その時、小さな子供をもつ親と言う立場で深く印象に残っているのは、米国の大人たちのもつ、子どもへの「優しい眼差し」だ。たとえば、子どもと地下鉄に乗るとほぼ必ず席を譲ってくれたし、子どもと公園を散歩していると見ず知らずの人が声をかけてくれた。子どもにも、僕たち親にも(特に母親には優しかった)。


一般論として、米国人は日本人とくらべて社交的だと言われる。見ず知らずの人同士でもすれ違う時に、会釈したり"Hi!"と声をかけたりするのは珍しい光景ではない。実際に日常生活を送るかで気がついたのは、子どもがいる家族には、よりいっそう優しく接していることだ。それは「子どもが好き」「かわいい」といった個人的な感情だけではなく、もっと大きな、社会全体として子どもを大切にしよう、という暗黙のコンセンサスのようなものだ、と僕は感じた。(なお、子どもをもつ親の方も、ただ好意に甘んじるのではなく、子どもがじゃまになるような場所、たとえばコンサートや静かなレストランなどには、意識的に子連れで行かないようにしていた。米国人がいつでも個人の権利を主張している、というのは短絡的な見方だ。米国には米国の「礼儀」がある。)


日本に帰国した後は、残念ながら、そのような「優しい眼差し」を体験をすることはほとんどなかった。帰国後、心が塞ぎがちだったのは、仕事のせい(日本での仕事の量は駐在時より圧倒的に多かった)だけではなく、プライベートも含めた生活全体にただよう、ある種の「疎外感」のようなものだったと思う。特に、子どもをもつ親への。当時はそんな日本に、ひどく失望したし、できるならまた米国へ戻りたいと思っていた。


すでに子どもは大きくなり、忘れてしまっていた子育て時期のそんな経験を、「赤ちゃん先生」の記事は思い出させてくれた。



今、日本で進行している少子化を、労働力や年金の問題と結びつけて考える人は多い。しかし、より重要な問題は、子どもが少なくなることが、社会全体(つまり、大半を占める「大人たち」)に与える、「未来への希望の喪失感」ではないだろうか。もともと「子どもへの優しい眼差し」の乏しい日本で、少子化によってさらに子どもへの関心が薄れる。それは、成熟した落ち着いた社会かもしれないが、未来への希望や期待が持てない社会だ。なにか新しいことが生まれる予感がする、良い意味で予測できない、わくわくするような社会ではない。


今すぐ子供の数を増やすのは難しくても、大人たちが、子どもたちのもつ未来の可能性を楽しみに思えるような社会にできないだろうか。そうすれば、何かが変わるように思う。自分の子どもだけでなく、他人の子どもも大切にすること。それはつまるところ、自分自身のためでもある。たとえ自分はもうすぐ死んでしまうとしても、子どもたちのもつ未来への可能性を想像すれば、誰だってわくわくするのではないだろうか。もし、目の前にいる子どもたちよりもっとほかに大事なことがあると思うなら、何かが間違っている。それくらい極端に、自分に問うてもよいのではないだろうか。


「子どもへの優しい眼差し」がない社会に、未来はないと思う。


【赤ちゃんにやさしい国へ】そこでは私たちの未来が作られていた〜赤ちゃん先生プロジェクト見学記〜 | 境 治