モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

少人数で戦っている人ほど強い

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僕が、大組織よりも、小さなグループや個人に期待するようになった理由は、少人数で取り組んでいる人たちほど「強い」ということを発見したからだ。


少人数(ときには一人)の組織で他の人に頼ることができない環境にいる人たちは、自分自身で、さまざまな問題と格闘せざるを得ない。それは辛いことだけど、日々の問題を乗り越えるうちに、自然に知識が身につき、経験が蓄積され、視野が広くなっていく。


政治も同じだと思う。「大組織の問題点ショールーム」みたいな今の与党の中では、たとえ有能な人物でも成長できず、腐っていくだろう。小グループで戦っている政治家の方が、多様な人々の意見を伝え、より間違いのない判断をしてくれる。なにより自分自身で考え、行動する人になる。そうやって苦労してきた人は、タフで、優しい。

これは逆説的な発見かもしれない。だって、本来は、たくさん人がいる方がいい仕事ができる、とずっと信じてきたのだから。でも僕は気がついた。人が多いほうがよい仕事ができるということが正しいのは、個々の人がそれぞれの能力を最大限に発揮できる環境にいるならば、とうい前提条件のもとでの話なのだ。上意下達、組織優先、「忖度」の中では、個人の能力は殺されていく。有能な人ほど、能力を捨てることになる。なんとも、もったいない話ではないか。


能力のある人々が、一人で戦う勇気を持てば、世の中は画期的によくなるだろう。そして何より、本人自身が今よりはるかにハッピーになるだろう。

「中身より外見」時代への憂い

https://note.mu/jacknakamura/n/nc491ecf5b7fb

 

先日、仕事でお世話になっている方から、「もっとちゃんとした服装をしなさい。いくら中身があっても、外見が悪ければ人は目を向けてくれないよ」と言われた。そのニュアンスから、けっして批判的なものではなくて、僕のことを思って言ってくれているのだと感じた。最近、僕は仕事の場所でもラフな格好で行くことが多いので、すこし上の世代のその人は、損をしていると感じてアドバイスをくれたのだろう。

 

自画自賛になるが、僕はプレゼンテーションは上手いほうだと思う。正確に言うと、以前は上手かったと思う。でも、プレゼンを重ねるうちに、中身がまだ足りないのに外見を取り繕って、実際よりもよく見せて評価される、ということに、一種の罪悪感というのか、嫌悪感のようなものが芽生えてきたのだ。そして、外見に手間と時間をかけるより、中身の質を高めることに労力を注ごう、と思うようになった。

 

たとえば、上で引用した、グレタさんとマララさんのプレゼンを比較する投稿。マララさんの洗練された話し方と比較して、グレタさんの話し方は愚直で、多くの人には届かない、と筆者は言う。ある一面を見ればそうかもしれない。しかし、僕は、このような、中身ではなく外見のことだけを評価する人に、とても残念な気持ちをもってしまう。

 

文章を書いた本人に悪気はないと思う。彼は、グレタさんの意見を反発なく世の中に受け入れてもらいたいために、自分の知識と経験からアドバイスしたくなったのかもしれない。ただそれはまさしく「一面的」な味方だ。中身の是非には触れず、外見や技術についての意見を堂々と述べることこそ、コミュニケーションの本質から外れていると思う。

 

これは、評価しやすいものしか見ない、「マニュアル主義」教育の弊害なのかもしれない。たとえば、会社の面接でも、何をどう考えるかよりも、いかに相手の共感を呼ぶ表現をするかのほうが大事だ、と考えているんじゃないかと憂える。(ただ、それは若者が悪いのではなく、学校でそういう教育しかせず、面接する方も表層的なことしか見ない、上の世代が悪いということなんだろう。)

 

 
コミュニケーション能力が大事だと言うことに異論はない。しかし、コミュニケーション能力を「テクニック」の次元だけで捉えるのは、コミュニケーションを活性化するどろころか、ますますコミュニケーションの質を落とすことに加担するだけだ。その結果、社会はますます空虚になっていく。

 

僕は米国での海外勤務の経験がある。その時、自分自身の体験として知ったのは、ネイティブの相手がこちらの話を聴くか聴かないかは、けっしてこちらの英語の上手い下手ではない、ということだ。今、僕が話している中身に価値がある、と相手が考えているから、話を聴いてくれるのだ。たとえ英語が下手でも、伝えようとしていることに価値があると思えば、彼らは真剣に聴いてくれる。

 

一方、日本では中身より形式が重視される。ときには中身なんかどうでもよくて、形式さえ整っていれば評価される。それが上に書いた、面接のテクニックようなものを助長する風潮の背後にあるのではないだろうか。日本は昔からタテマエ社会だと言われるが、昨今、さらにタテマエ社会になっているような気がしてならない。若者と話していると、そつなく、「正しいこと」を述べる人が多い。でもそれは、本当に自分自身が考え、感じたことなのだろうか。正直なところ、そんな疑問を持つことも多い。若者たちの本音は、公の場で本音を語るなんてありえない、ということなのかもしれない。

 

日本の「タテマエ」は、海外の「ポリティカル・コレクトネス」とは全く違うものだ。ポリティカル・コレクトネスは社会全体の自由平等や民主的な考えから生まれたものだが、日本のタテマエは上下関係などの古い考え方や、責任回避というネガティブな思考、「場の空気」という得体のしれないものに根ざしているように思う。

 

昨今叫ばれている、起業家マインドの不足や政治への関心の低さ、社会全体にただよう息苦しい雰囲気なども、「中身より外見」という考え方に、その根っこがあるのではないだろうか。

 

人々の間に信頼を取り戻し、毎日生きているのが楽しいという世の中にするには、まず「外見より中身」と考える人を増やすことではないだろうか。

 

だから、今日、仕事の場でTシャツを着ている僕を見て、あなたが不快に思っても、少し我慢してまずは話を聞いてほしい。

 

 

「共通文化」が世代の思想を作る(どんな世の中になってほしいのかを伝えるのは、大人の責務)

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僕たちの時代は、間違いなくテレビ、とりわけ、アニメに大きな影響を受けてきた。少し大げさにいうと、それぞれの世代に「共有文化」となるアニメ(と漫画)があって、それらがその世代の考え方や感じ方を形作ってきた、と思っている。

これからの世代は、何に影響を受け、何がその世代の「文化」になっていくのだろうか。



付け加えておきたいのは、子どもたちが見るアニメや漫画を作ってきたのは、大人たち、ということ。その時代の大人たちが、自分たちが考える夢や理想、逆に疑問点や社会の問題を、アニメや漫画の中に直接、間接に取り込み、子どもたちに伝えてきた。

つまり、どんな人たちを育て、どんな世の中になってほしいのか、そのために何を伝えるべきなのかを考えるのは、大人の責務だと思う。



最近、そんなことを考えている。

ヨミスギガー症候群

アスペルガー症候群の特徴って、簡単に言うと「空気が読めない」ことらしい。

アスペルガー」なんて名前がつくと不気味な感じがするけど、昔から「バカ正直」って言われる人はいたし、そういう人がいる方がうまくいく場合もたくさんあるよね。

日本は職人の国だと思ってるんだけど、職人っていうのは、空気が読めないから、最高のものにむかって突き詰められる。

「空気が読めない」のが障害なら、「空気を読みすぎる」というのも障害。今の日本の社会は「空気読みすぎ」が障害になってると思うね。

そういう人たちに「ヨミスギガー症候群」とか名前つければ、少しは世の中のバランスが取れるんじゃない?

興味と文句と無視

たとえば、誰かが道ばたで突然踊りはじめた時、まわりにいる人々の反応は3つに分かれるんじゃないだろうか。




なんだろう?と興味をもって、見に行く人と、

なにやってるんだ!、と怒って、文句を言いに行く人と、

なにごともなかったように、通り過ぎるだけの人、だ。




日本は三番目の人たちが多いんだろうな。

そして、二番目の人たちが増えてるんだろうか。




でも、やっぱり楽しいのは、一番目の人たちだよね。

「デザインの常識は変わっていく」というのがデザインの常識なんだろう

wired.jp


SnapchatやTikTokといった、今、若者に支持されているアプリのインターフェース・デザインはとてもわかりにくい、という記事。なかなか示唆に飛んだ指摘だと思った。


記事にかかれているように、わかりにくいデザインは「古い世代を入れないため」という陰謀論(?)もあるようだ。その真偽は横においておくが、そもそも古い世代が「わかりにくい」と思うのは、ある種の「常識」にとらわれているからだ。自分たちが「こうだ」と思っているものと違うものが出てくると、戸惑い、時に怒りを感じる。


こういう時は、自分自身がまだ若者だった頃を思い出すのがいい。「ホームページ」なるものが企業に浸透し始めた頃、あるデザインを持っていったら、クライアント企業で「ホームページの見識がある」担当者に全面的に否定された。一番のダメ出しをくらったのが、画像を使わず、テキストだけのメニューボタンだった。たしかにその頃のフォントは貧弱で、画像をつかったボタンに比べると見た目は「しょぼい」。でも、データ量の小さいテキストのほうが、表示スピードは早いし、変更も簡単だ。僕はそちらのほうが企業向けだと思った。

今なら僕の言うことを理解してくれると思うが、当時の「まともな」ホームページのボタンは、ほぼ100%、画像でデザインしていたのだ。


他にも、当時巷で言われていた「デザインの常識」を思い返すと、その頃否定されていたデザインが、今 は普通になってたりする。まあ、人間は都合の悪いことはすぐ忘れてしまうのだけど。



引用した記事は、「これから1〜2年のうちに、厳格なデザインのルールに対する反発が起こり、もっとクリエイティヴなパターンや、リラックスしたアプローチが好まれるようになると予測している」という言葉で締めくくられている。この予測は正しいだろう。

なぜなら、「デザインの常識は変わっていく」というのがデザインの常識だからだ。

テクノロジーの発展によって倫理がより重要になる

www.technologyreview.jp


今朝、テレビで、サウジ石油施設の攻撃のニュースを観た。テレビでは攻撃の詳細は語られなかったが、その後ネットでドローンによるものだと知った。

「ドローン攻撃は極めて破壊力があるが、安上がりに実行できるうえ(これらのドローンは一機当たり1万5000ドルもかかっていないだろうと、ある専門家はニューヨーク・タイムズ紙に語っている)、攻撃を防ぐのは非常に難しい。」


ドローンが僕たちの前に現れてから十年ほど。技術は急激に進化し、市販品が出て価格も下がり、僕のような普通の人にも普及した。監視や配送など、産業にも使われはじめた一方で、軍事や、今回のようなテロ行為のような強力な「兵器」も生まれている。「セキュリティ」の概念も大きく変わるだろう。

これはドローンに限ったことではなく、サイバー攻撃が深刻化するインターネットや、ミサイルやスパイ行為につながる宇宙技術、今、注目を集めるロボットや人工知能、優れたテクノロジーほど、どんなことにも利用できる。良いことにも、悪いことにも使えるのだ。

テクノロジーはあくまでも中立。それが安全なのか、危険なのかは、テクノロジーを扱う人間側の問題であることを真剣に考えなければならないと思う。「倫理」という、古くて新しい言葉を、すべての現代人が考え直す時に来ていると思う。