モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

多様性を認めあう世の中なら、すべての人が幸福になれるのではないだろうか。

クーリエ・ジャポンに、幸福について、岸見一郎氏が寄稿していた。

courrier.jp


小確幸(しょうかっこう)」という言葉があるのだそうだ。

辞書には「小さいけれど、確実な幸福」という説明があります。もともと村上春樹がエッセイのなかで使った言葉です。


なんだか、「ささやかな幸せ」みたいなことかと思ったのだが、「その人にとっての幸福」と考えたほうがよさそうだ。岸見氏の文章を読み進めるうちに、これこそ幸福の本質なのではないか、と思えてきた。

哲学者の三木清は、成功は量的であるが、幸福は質的なものだと考えています。……成功が「一般的なもの」であるのに対して、幸福は「各人においてオリジナルなもの」であるともいっています。

価値の種類が無限にあれば、幸福の種類も無限になる。すべての人が金持ちになることは無理だろうが、すべての人が幸福を感じる世の中は実現できるのではないだろうか。多様性を認めあえる世の中であれば。

小確幸」を見出すために必要なのは、貢献感です。..... 「自分の存在、自分が生きていることが他者に貢献している」と感じられることです。


多様性が認められる、ということは、誰もが完全ではない、ということだ。そのためには助け合わなければならない。

嫉妬は、自分がやりたいことを他の人が実現することから生まれるのだから、自分ができないことをする人には嫉妬しない。むしろ、他人が自分を補ってくれることになるから、心から感謝するだろう。

記憶力と洞察力は反比例する(のではないだろうか)

jp.quora.com


長い間、体感的、直感的にずっと信じていることがある。それは、記憶力がいい人は洞察力が低いのではないか、ということだ。

その考えは、半ば脅迫概念のようになり、若い頃は洞察力を高めるために不要なことは覚えないようにしよう、と思っていたほどだ。正直に言うと、歳をとった今でもそう思っているのだが、最近はあえて忘れる努力をするまでもなく、勝手に忘れていく。残念ながら、洞察力が向上したようにも思えないが。

とにかく、僕は「記憶力と洞察力は反比例する」という自分勝手な仮説を打ち立て、そういう視点でまわりの人たちを見てきたように思う。その結果、少なくとも仮説を否定するような事実は見つけられなかった。もちろん、記憶力と洞察力をあわせた、能力全体のレベルの高低はある。しかし、ほとんどの人は、記憶力派か洞察力派か、どちらかに分けられるように感じてきた。


一般論で言えば、文系は「記憶力派」、理系は「洞察力派」だ(注)。理系の中でも、数学・物理は「洞察力原理主義」と言える。極端に洞察力に重きをおき、記憶力なんて意味ないね、と記憶力を迫害しているのだ。僕も、おそらくこちらの派に近いようだ。


ただ、僕は洞察力派だというだけで、記憶力と洞察力のどちらが偉い、というわけではない。コンピュータが、CPUとメモリの両方がないと成り立たないように、記憶力と洞察力の両方が組み合わされることで、よりよい発想・思想が導かれるのは間違いない。

実際、僕は、若い頃から、記憶力に優れた友人のことを頼りにし、尊敬してきたし、今でも、記憶力に優れた仲間が近くにいると、とても心強い。


そういうことを考えると、人と協力しあうことの意味も明瞭になり、納得できる気がする。

まあ、そもそも、こういうことを考えることが「洞察力派」の特性なんだろう。


(注)断っておくとが、僕は「文系・理系」という分け方には違和感があり、そういう分け方には反対だ。2つに分けるとするなら、「記憶力学部・洞察力学部」に分ければいいと思う。それが、おおよそ「文系・理系」に重なっているだけで、必ずしもぴったりと重なっているとは思っていない。

公的機関はクレームを恐れるな!

digital.asahi.com


今朝の朝日新聞に、映像作家の吉開(よしがい)菜央さんが、自らの映像作品の一部を黒く塗りつぶして、東京都内の美術館のメディアアート展で公開したという記事が載っていた。

女性の指がとれ落ちる様子や肉体の描写に対して、施設を運営するNTT東日本から「東京五輪パラリンピックを控え、障害者への配慮に欠ける」「不快な表現があり、公開できない」と迫られた末の苦渋の決断だという。


僕はこの作品を観ていないので、その是非を確信を持って言うことはできない。しかし、彼女の映像表現が「公序良俗に反しない範囲にある」という前提で意見を述べるなら、NTT東日本の対応は、息苦しい世の中をさらに息苦しくする行為だと思う。それは、最近ますます強くなっている「事なかれ主義」の現れとしか思えないからだ。


「誰かが傷つくことはやるべきではない」という意見はあるだろう。しかし、「誰かが傷つくことはやらない」のなら、おそらく何も言えないし、何もできなくなる。どんなことを言っても、必ず傷つく人はいる。「完全な配慮」など、現実にはあり得ない。

たとえ、傷つく人がいるとしても、その意見や行為が、少なからぬ人に新しい視点をあたえたり、何かを考えさせるものであるならば、それを公開し、共有するべきだと思う。極端に言うなら、その言葉や行為が「不謹慎」くらいなら、押さえつけるべきではないと思う。「不謹慎」とは、常識にてらして不適切ということ。よりよい未来を見すえて現状を変えようという意見なら、現在は「不謹慎」と言われるだろう。現時点では「不謹慎」な考えほど、あたらしい気づきを与えてくれる可能性も大きい。意見や行為にフィルターをかけることは、よりよい未来への変化の芽を自ら摘んでいるようなものだ。


とりわけ、国家や行政などの公的機関、そして公に準ずる行為を行う大企業は、個人の意見にフィルターをかけることに慎重であるべきだ。

公的な機関の役目は、中立な意見「だけ」を伝えることではない。さまざまな個人が持っている、さまざまな意見(左も右も、革新も復古も)をできるだけもらさず、世の中に伝える場所を提供する姿勢。それが、公的機関に求められる「中立」であり、中立であるためには、あらゆる意見を伝えることよう努力するべきだ。特定のフィルターを掛けることは、中立とは真逆の行為だと思う。


行政や大企業がフィルターをかけたいのは、クレームを恐れているからだ。でもなぜクレームを恐れるのだろう?

たとえば美術館で作品を展示する時、美術館は、個人である作家に場所を提供しているただけであって、その作家の意見や行為を代弁しているわけではない。だから、もし誰かが美術館にクレームを付けても、「作品の内容は私たちの関与することではありませんし、するべきでもありません」と言えばいいだけだ。作品を展示している美術館には、何の責任もない。


クレーマーの側も、自分の考えを伝えたいのなら、美術館に電話やメールをするのは筋違いだ。直接、作家に言えばいい。もっとも、その作品を、時間をかけ、考え抜いて創った作家と議論する勇気と見識があれば、だが。


以上が僕が日頃感じている「違和感」だが、誤解しないでほしいのは、けっして行政や大企業にクレームをつけているのではない、ということだ。むしろ、だれかがクレームをつけても、あなたたちの責任ではないのだから、「知ったこっちゃない」という態度をつらぬけばいいのではないですか、と伝えたいのだ。


たとえ自分たちが正しいと思っていても、面倒なことに巻き込まれたくない、と言うのなら、向けられたクレームや反対意見を隠さずに、逆にすべての人にオープンにすればいいのではないか。もし、あなたたちのやっていることが正しいなら、クレームを付ける人よりも、擁護する人のほうが多いはずだ。社会に、こんな問題があるんだ、あなたたちはどう思いますか、と問えばいい。少数のクレーマーの意見に従うより、はるかに確実な答が得られるだろう。

もしクレームを公開しても、誰も意見を言ってくれない、と考えているなら、それについてはクレームを付けたい。お互いを信じる態度を率先して示すことが、公的的な組織の重要な役目ではないですか、と。もう一度いうが、公共のミッションは責任を取ることではない。今、こんな問題があるのだ、ということを明らかにし、さまざまな方法で、市民の間の議論を促すことなのだ。

おでんの思い出

togetter.com



おでんの具、にもいろいろあるんやな。おもろいな。


おでん、言うたら、若い頃、仲間と話しとった時にな、おそ松くんに出てくるチビ太が持ってるおでんの具、あれ何やねん?っちゅう話題になったことがあるねん。でな、具のひとつが「チクワブ」と呼ばれるものみたいや、とわかったんやけど、「え?『チクワブ』って何や?チクワとちゃうんか?そんな食いもん、知らんわ!」と、みんなでざわついたのを思い出すわ。


だいたい「おでん」っちゅう名前自体、完全に「あちら側」の言葉やろ。うちらは、やっぱり「関東炊き」がしっくりくるわ。カツオの薄出汁のやつな。え?今までで一番うまかった関東炊きは何やって?それはやっぱり、小さい頃、父親に連れられていった、須磨の海水浴場で食べた関東炊きやな。あれは、ほんまに美味かったわ。


今みたいに、おでんが全国制覇したんは、コンビニの台頭が大きいやろな。コンビニのせいで、関東炊きは消えてしもた、と思てる。わし?もちろん、コンビニのおでん好きやで。おいしいやん。時代の流れには逆らえんわ。当たり前やろ。でもな、関西人としてはな、コンビニでおでん買うにも、せめて大阪出のローソンで買いたいとは思てる。それが関西人っちゅうもんやろ。でも、ここだけの話やけど、オフィスからはファミマが一番近いねん。なんで、ほんまはファミマで一番おでん、買うてるねんけどな。


コンビニのおでん言うたら、ちょっと前に、コンビニのおでん売り場の前で、イスラム教の国から来たらしい奴らにな、「この中で豚肉が入ってない具はどれやねん?」って聞かれたわ。そうか、こいつらは豚肉あかんねんな、と気がついてな、「ソーセージ以外はオーケーや!」と教えてやった。ありがとう、とかなんとか言うてくれてな、握手までしたわ。


でもな、後で考えたら、豚なんこつもあったし、牛すじとか、鶏の皮とか、タコとか、ああいうのはええんかいな?って、いろいろ不安になってきてな。でも、まあ、今さらしゃあないわな。あいつら、今も元気でやっとったらええんやけどな。今度会うたら、ちくわぶと厚揚げおごったって、どっちがうまいか聞いてみたいもんや。

ものすごいこと

今まで生きてきて、その中で見たこと、知ったことの中で、何が一番ものすごいことかって、芋虫がサナギになって蝶になる、あれほどすごいことはない。

今まで葉っぱの上で、うだうだと生きてきた幼虫が、「もうすぐ空飛べますよ」ってなって、サナギという生きてるのか死んでるのかわからないモノを経て、一週間ほどでまったく違う体になってしまう。空まで飛べてしまうのだ。これぞ黒魔術かと思うくらい、ものすごいことだ。(それに比べると人間の一生は代わり映えしない。驚きのない、いたって平凡なものだ。)


でも、大人になると、そんな虫たちが見せてくれる「ものすごいこと」に目を向けることもなくなってしまう。そういう「ものすごいこと」を見ていたのは、子どもの頃だけなんだ。


だから、大人はつまらない。大人自身もつまらないと思ってるだろうけど、それだけじゃなく、外からみて、非常につまらない生き物なのだ、大人は。毎日、当たり前のことをみて、当たり前のことをやっているだけ。感動のない日々にボーッとしているうちに、時間だけがすぎていく。子どものように「ものすごいこと」に出会うことはめったにない。というか、近くにある「ものすごいこと」が見えていない。


大人も、たまに「ものすごいこと」をみてみれば、今自分が悩んでいることや、手に入れたいと思っていることが、なんと小さなことか、と思えるんじゃないだろうか。


大人と子どもの違いって、体格とか脳の発達とか、そういうのではなくて、「ものすごいこと」にどれだけ触れようとしているかだけなのかもしれない。子どもの頃、楽しかったのは、幼くて経験がないから何でも楽しく思えたのではなくて、本当に「ものすごいこと」に出会ってたからだと思う。


子どもが明日に希望を持てるのは、まだ知らない「ものすごいこと」がたくさんあって、明日、また新しい「ものすごいこと」に出会えると、心から信じているからなんだろう。

雑感 2018年10月

10.14

"生徒が知らなければならないことを教えるのが教育だ。生徒が理解できないなら、理解できるように工夫するのが筋である。「理解できない人がいるから教えないようにすればいい」というのはもはや教育ではない。単なる教育の放棄だ。

 そもそも「数学は理系の教科」という考え方が現実にそぐわなくなってきている。文系とされている経済学、社会学、心理学といった分野でも、統計をはじめとした数学の手法が多用されるようになっている。理系はもちろん文系でも、数学の重要性が増すことはあっても減ることはない。"

tech.nikkeibp.co.jp


確かに、「量が減った」とか「○○を教えなくなった」(だからだめ)という表面的な話はあまり意味がないですね。

高校でも、現在の生物学なんかは、僕たちの頃には教えてくれなかった(教えられなかった)DNAの構造やタンパク質合成みたいなことも教えているようだし、ある分野では昔よりはるかに高度なことを教えていますよね。

少し話がそれるかもしれませんが、先日、ある大学の先生が、大学教員を論文の数とか引用数で評価するのはまったく意味がない、と断言していました。論文数を増やしたいなら、本来はひとつの論文にまとめられるものを小分けするようになるし、数しか見ないから論文の質がどんどん落ちていると。最近、それこそ高校数学レベルの微分を間違っている論文もあった、と嘆いてました。

また、引用数を増やすのも、要するに「1+1=2」みたいな自明の論文をひとつ書けばいいだけだから、やっぱり意味がないと。たとえば、もし今、アインシュタインみたいな天才が論文を書いたとしても、さっぱり引用されないだろう。将来世の中を変えるようなすごい論文は、今の人たちには理解できないから、と言われてました。

で、高校の話に戻ると、僕も国語と数学は賛成です。僕の恩師の松田先生は、最後は「読み書きソロバン」と言ってます。僕の大学時代の授業では、「今、君たちに最先端のことを教えてもすぐ古くなるから、ここでは徹底的に基礎を教える」と言って、本当にそういう授業でした。教科書に乗っている基礎方程式を、そもそもその式がどうやって導かれるのかを、ほとんどゼロから理解するような授業でした。

その時は勉強も大変だし、そんなことをやる意味がわかりませんでしたが、その時学んだ「考え方の考え方」みたいなものは、まったく違う仕事をしている今でも役立っているように思います。何ごとも基礎の基礎まで立ち返れば必ず理解できるし、そうしないと本当には理解できない、という確信みたいなものがあるんでしょうかね。




10.18

男女平等の視点だけでなく、有能な人を認めなければ、社会はどんどん劣化するよ。

そんな奴らが「先生」って呼ばれる社会、ほとんどコメディーだな。

教育に限らず、「世の中はカネとコネ」とかうそぶき、イエスマンばかり集めて「適材適所」としらを切る者が幅を利かせている限り、日本の凋落は加速するだけ。

女子評価、一律1段階下に 追加合格決定、学長へ一任 不適切入試、複数大で判明:朝日新聞デジタル


10.19

「どんな阿呆でもものごとを複雑にすることはできるが、単純化するには天才がいる」。
E. F. シューマッハー

“Any fool can make things complicated, it requires a genius to make things simple”
― E.F. Schumacher



10.21

近々、ホワイトアルバムの50周年記念エディションが発売されるそうだ。

ビートルズを初めて聞いたのは中学生になってすぐ。FM放送をカセットテープに「エアチェック」して、本当にテープが擦り切れるくらい毎日聴きまくった。

ただ、このホワイト・アルバムだけは、夜、1人では怖くて聞けなかったのだ。

ヘルタースケルター」とか、「レボリューションNo.9」とか、エクソシストのテーマ曲(あれもトラウマ)並に怖くて、それらを聴いた後は、「ワイルド・ハニー・パイ」や「コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロウヒル」さえ不気味に感じてきて…。

50週年記念エディションは、マルチテープからのリミックスも興味深いけど、メンバーがジョージ・ハリスンの家に集まって、全編アコースティックで弾いた「イーシャー・デモ」は、なんとしても聴きたい。

もう一人でも怖くないし笑!

www.youtube.com



10.26

「2019年10月の消費増税に備えた景気下支え策を巡り、財務省総務省マイナンバーカードにためられる自治体のポイント制度を「プレミアム商品券」に活用する検討に入った。」そうだ。

そもそも消費税の導入には、反累進課税、すなわち、所得の多少によらずに税を負担させたいという意図があるわけだから、そこに低所得者対策を入れるなんて矛盾してる。小手先のごまかしにしか見えない。

それに「プレミアム商品券」って何なんだ? 国政・国税の変更を商品やサービスの「販促」としか見てないみたい。携帯電話の販売で「実質0円」とか言うのと同じ手口だよねー。それに必要なコストは?

「プレミアム商品券」を導入するんじゃなくて、消費税は不要ってことになるんじゃないの?

なんかバカにされてる気がするな…。



10.29

"多様性を必要としている時代とは、
多様を思いつけない膠着した時代の別名である。

「バカとワル」に期待する時代とは、
ほんとうは「芸術」が、
その役割を果たせてない時代とも言える。

「バカとワル」に匹敵するパワーを持った
「アート」が、いつ出てきてもいいはずだ。"

糸井重里

仕事は人間を向上させる、もっとも大切な行為である

女性や失業者、障害者たちは「私たちに働く機会を!」と訴える。

一方で、労働者たちは「残業も休日出勤もやめてくれ!」と叫ぶ。


そんな世の中を見ながら、大きな矛盾、というか、根本的な疑問を感じている。それはここ十年くらい、ずっと考えている疑問だ。


いったい、人間にとって、仕事とは何なのだろうか ――――?


「仕事」と呼ばれるものが人間にとって何なのか、僕にはよくわからなかった。

すくなくともそれは、人々にとって楽しいことではなく、辛いことになっているように見える。その傾向は年々強まっているように感じられる。

仕事は、やらずに暮らしていけるならやらないでおきたい「苦痛」「害悪」なのだろうか。それでも人々が仕事をするのは、生きていくため、収入を得るために仕方がないからだ。そんな考え方が強まっているように思う。

マルクスは、労働者は「労働」を切り売りし、それを資本家が搾取している、と言った。労働は奴隷を作るために、社会が発明した巧妙なしくみなのだろうか。



逆に、もし仕事をしなくても暮らしていける世の中が実現したとしたら、人々は幸せだろうか。そんな世の中で、人々はいったい何をやって暮らしていくのだろう?そんな人生に意味はあるのだろうか?


インドの経済学者、クマラッパはこう述べている。「仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。 <中略> 仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上する上で最高の舞台となる」。



僕はクマラッパの言っていることを支持したい。仕事は、知性と感性を高度に発展させた動物が本能的に行う行為であり、人間がもつ素晴らしい能力をさらに高める高度な営みであり、人類という種が継続・進化していくための重要な行動である。この考え方は、僕にはしっくりくる。


ミツバチは毎日蜂蜜を集めているが、それはけっして義務感からやっているのではないし、ましてや女王蜂の奴隷だとあきらめてやっているのでもない。彼ら(?)にとって蜂蜜を集めるのは自然な行動であるし、その行為によって、ミツバチという種が永続できる。

それと同じく、仕事は、人間にとって、人間であるための自然な行為ではないか。それは、微視的に見れば、生産とコミュニケーションという技術といえるかもしれないが、もっと大きな視点では、人間という種を存続、発展させる基本的な行為なのだ。




仕事が人間の基本的な行為であるなら、なぜ、今、仕事が社会的な問題となっているのか。仕事が人々の重荷になり、精神を病み、最悪の場合、仕事が原因で自死にいたるような悲劇がおきているのだろうか。

それは、仕事そのものが問題なのではなく、仕事を行うために作ったシステムの老朽化、すなわち、形骸化した組織が問題なのだと思う。本来、「人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出す」はずの仕事が、組織のせいでまったく逆のものになっている。仕事という行為は崇高なものだが、その行為を行う「場所」が悪さをしている。


そうであるなら、仕事をつづけるために別の場所を探すか、見つからなければ、新しく作ればいいのだ。その第一歩は、会社や組織がなければ仕事はできない、という先入観を捨てさることだと思う。


クマラッパのいうような仕事を体現している人々に、たとえば、職人がいる。職人は、お金を得るためだけにモノを作っているのではない。自分自身の手でモノを作ることは、自分自身の喜びなのだ。そして、作られたモノを通じて、他の人々も少し幸せになる。それがまた職人の喜びとして加わる。そこでは、お金は目的でも主役でもない。人々の感謝の表れであり、職人が仕事を続けていくための糧にすぎない。



政治に目を向けるなら、「働き方改革」などと空虚な言葉で、残業を規制したり、正社員を増やしたりするのは、現在の疲弊した「働き方」、すなわち組織をごまかしながら延命するだけで、人間の本質的な幸福にはつながらないと思う。そもそも間違った場所で働いているのだから、小手先のごまかしではなんともならない。間違ったことに目を向けているうちに、もっと大きな重要なことを忘れてしまい、手遅れになってしまうかもしれない。


仕事は人間を疲弊させ、不幸にするものではない。人間を非人間化するものではない。その逆に、仕事は、人間が人間であるために、もっとも大切な行為だ、ということを再認識すること。そして「この仕事は私にとって生きがいだ」と思える人を一人でも増やす世の中をつくらなければいけない。

ひとりひとりが、小さな執着心と間違った先入観をすてれば、大きな対価が得られると思う。