モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「ボトムアップと対話」を拒否する政治を、市民は拒否せよ

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間違った問いを立てれば、間違った答にたどりつく。

人々はそのことに薄々感づきながら、なんとか「答」を手に入れた安心感を捨てたくないために、その答を信じようとする。

しかし残念ながら、それは妄想であって、希望ではない。


僕は、市民や他国との対話を拒絶する政治を信じない。それは、人々の目を真実からそむけ、特定の人たちが作った間違った問いを、人々に信じさせようとする行為だからだ。

ロスコフ氏の言うとおり、経済政策も外交政策も、他のあらゆる施策も、国内外の市民の自由な発想や考えをすくいあげ、統合するものでなければならないはずだ。それがなければ、特定の人々の支配を許すことになり、世界の市民はけっして「正しい問い」にたどりつくことはできない。


ボトムアップと対話」を拒否する政治を、僕たち市民は拒否するべきだ。

自分のやりたいことは自分のためにやる

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先日、普段から、何となく「かっこいいな」と思っていた二人と話をする機会に恵まれた。

なぜ僕は彼らのことを好きなのか。それはおそらく、彼らが自分の心にとても正直で、常に自分自身で生きようとしているからだ。

「生きる」というのは、金を稼ぐことだけじゃないし、ましてや他人を利用したり、誰かをだまして「勝つ」ことでもない。

「何かおかしい」と感じて「こうなれば世の中はもっとよくなるはずだ」と、みずから行動する。それは、けっして誰かにアウトソーシングすることではない。

だって、それが一番、楽しいことなんだから。

自分の周りの様々なことを他人に任せる(やらせる、やってもらう)のは楽かもしれないが、結局、自分には何も残らなくなる。自分はいったい何をするのか?何のために生きるのか?

自分のやりたいことは、自分のためにやるのだ。

そんな当たり前のことに気づくには、たまに立ち止まって(できれば歩きながら)自分の頭で考えて、自分の体で動いてみることなんだと改めて思った。

そして何より、こういう刺激やインスピレーションを与えてくれる人たちがまわりにいることが、何よりの幸福。感謝。

日本人は日本人の得意なことをやるべき~科学技術立国消滅の危機に

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世界の科学技術研究が加速する中、日本の科学技術論文数(だけ)が増えていないらしい。この記事は2004年の国立大学法人化と運営交付金の削減を「主犯」としているようだが、それだけではないだろう。

もっと大きな理由は、世の中が科学者、技術者を冷遇してきたからだ。

昔から、日本の科学者、技術者は、そのアウトプットの量に比べて得られるリターンが少ない。給料も少ないし、世間の評価も低い。それどころか、科学者、技術者は「好きなことやってる変わり者」とか「おたく」とか「ネクラ」とか言われる始末。そんな風潮で、科学者・技術者になりたい若者が育つだろうか?


このことは日本にいるとわからない。

僕だって、前職の技術者時代、米国に5年間駐在する機会がなかったら、日本の科学者・技術者に対するおそろしいまでの冷遇に気づかなかっただろう。

米国の共同開発相手(ゼネラル・エレクトリックの航空エンジン部門)のカウンターパートナーの技術者と仲良くなって、ある時、給料(報酬)を聞いてみた。すると、少なくとも僕の2倍の給料をもらっていた。彼は少し年上で役職も高かったが、それを考慮しても2倍なんて差は日本では絶対につかない。社長になってやっと追い抜くくらいかもしれない(社長の給料は知らないのだが、まあだいたいそんなところだろう)。

給料の高さだけじゃない。エアロスペースのエンジニアというと、子供たちにもけっこう人気で、うちの息子はエレメンタリー・スクールで「僕のダッドは、ジェット機のエンジンを作ってるんだ!」と自慢していたらしい。(だから、会社を辞めた時は、息子に申し訳なかった。)


そんな国で、科学技術に誠心誠意取り組もうなんて、殊勝な若者がたくさん出てくるほうがおかしい。今までの日本人は、なんてすばらしいマインドを持っていたのかと驚嘆する。第2次世界大戦のあと、何とか世界に追いつこうと頑張ってきた科学者、技術者には、兵士以上に感謝しなければならない。


これはけっして愚痴じゃない。そもそも僕はもう技術者じゃない。そんな小さな個人的な気持ちで言ってるんじゃない。

これまでの日本の発展を支えてきた、日本の唯一のとりえがなくなってしまうよ、と心の底から危機感を持っているのだ。


日本は「職人の国」だ。ものを工夫し、精緻に作ることに長けている。逆に、それ以外の、高い表現力や、強いリーダーシップで相手を動かしたり、世のなかを変えたりするのは苦手なのだ。今の日本は、多くの人が苦手なことをして、「いっこうに楽にならない」と嘆いているように思う。


はやく、本来の姿にもどろう。それが日本を救う唯一の道だ。

無職という大発見

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp


僕も会社をやめて1年くらい「無職」だったけど、あの時の開放感は今でも忘れられない。毎日、「今日は何をしようかな。そうだ、あれをやろう」って、全部自分で決められるなんて生活は、物心ついてからは一度も経験したことがなかったのだから。世の中を、他の人とはまったく違う視点から見ている気がした。「これは大発見だ!」とマジで思ったし、今でもそう思ってる。

だから、この記事を書いた人は、けっして負け惜しみから書いたのではないことがわかる。


まあ、その後、開業して、一応ちいさな会社の「社長」となった僕は、今でも「無職」とそんなに変わらない生活かもしれないし、そもそも「仕事」=雇用されることじゃないでしょ、とずっと思ってるので、特殊な意見なのかもしれないけど。

デジタルだからいいってわけじゃない。

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先日、ある分野の本を買おうと思ったのだが、ネットで調べると、関連するたくさんの本があって、どの本がよいのかわからなかった。

そこで、ジュンク堂に行って、その分野の棚の前でいくつかの本を手にとって、ページをめくりながら、文章や内容や価格だけでなく、本の大きさや重さ、装丁や全体の雰囲気まで見比べて、本を選んだ。

そういうことができるのはリアルな書店の良さで、まだどの本を買うのか決めていないならリアルな書店で本を買う方が効率的で正確だな、とあらためて思っていたところ。

デジタルが進歩したといっても、実は非効率なことを無理強いしている部分もある。ネットの良さとリアルの良さが正当に評価されて、最適な選択のもとで共存できるようになればいいのにな。

痛風は「そろそろ体のケアをしろよ」というメッセンジャー


40歳の頃から、時折、痛風発作に襲われるようになった。

最初、足の指や足首に、疲労感のような違和感がやってくる。そのレベルで翌日には消えてしまうこともあるが、多くの場合はそれが痛みに変わっていく。足が赤みを帯び、ひと目でわかるくらいに膨れ上がる。ピーク時には歩くことはもちろん、両足で立ち上がることさえままならない。そんな状態は数日で収まることもあれば、一週間以上続くこともある。

そんな、痛風発作にもかなり慣れてきた。最初の兆候が訪れると、「お、来たな」という感じでそんなに恐れはないのだが、やっぱり憂鬱になる。僕の場合、痛風発作がやってくるのは、飲酒や食べ過ぎという栄養(プリン体)のとりすぎではなく、仕事のストレスや季節の変わり目といった体調変化によるところが大きい。(痛風になったというと、多くの人は「贅沢な暮らしをしているからだろ」という非難の目を向けるのだが、そうではないのだ、むしろつらい生活をしているためなのだ、と強調しておきたい)


痛風のピーク時は、とにかく活動が低調になる。痛みを堪えながら歩くスピードは、平常時の五分の1くらい。足が腫れ上がっている時は靴も履けないから、外出する気も失せる。仕事はそうそう休めないから、痛みを堪えながらオフィスには行くが、到着したらできるだけ席を立たない。足を上げたり、冷やしたりしながら、ただ痛風の嵐が通り過ぎるのを待つのみだ。食欲もないし、栄養のあるものを食べると長引くので、食事も低カロリーで野菜中心の、超健康的なものになる。

痛風の期間は、疑似入院しているようなものだ。あるいは、被介護者になる。もちろん、家族には不評だ。


そんな生活になるので、逆説的に言うと、痛風になると健康的になるとも言える。不規則な生活と長時間の仕事が続き、疲労やストレスが溜まり、栄養が偏ってくると、「そろそろ体のケアをしなよ」という感じで痛風発作がやってくるのではないだろうか。自分の体が、体のメンテナンスをするために、痛風発作というメッセンジャーフィクサーを派遣してくれているのだ。

たしかに痛風発作中はもちろん、それからしばらくの間も、食事や睡眠に気をつけるようになる。体重は落ち、栄養のバランスはよくなる。健康的になる。

たまには体に目を向けるように、痛風発作が教えてくれているようだ。そう考えると、痛風も、その他の病気も、自分の体の異常を教えてくれるサインと思え、変な言い方だが、愛おしさも感じる。


もっとも、理想的なのは痛風もその他の病気も、やってこないに越したことはない。自己管理がしっかりできる意志の強い人は、めったに病気になることもないのだろう。意思が薄弱な、僕のような「劣等生」は、たまにショックを与えないといけないのだろう。そう考えると、痛風に同情もしたくなるし、痛風に申し訳なくさえ思う。

そんなおべっかを使っても、痛風発作の痛みは和らがない。

勝手に貧しくなっていく日本

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10年前、大手建築設計会社に務める友人にこんな話を聞いた。その友人は、手がけていたマンションのCG制作を中国のCG会社に発注した。ところが、できあがってきたCGを見るとどうも違和感がある。たとえば、中庭にあるはずのテニスコートがテニスコートに見えない。コートらしき場所の上にプレーヤーらしき人たちはいるが、どうもテニスをやっているように見えないのだ。そこで彼は、そのCGを作ったクリエーターになぜこうなったのかを聞いてみた。すると、そのクリエーターは決まり悪そうに、実はテニスを見たことがないんだ、と告白したのだそうだ。

その時、友人は、文化レベルに関わるものは、制作コストの安さだけじゃなくて、ある程度豊かなくらしをしている人に作ってもらわないとだめだよな、と言った。


そんな笑い話から10年たった今、中国人と仕事をして同じような経験をすることはほとんどなくなったと思う。それどころか、中国は今や、アジアの映画産業の中心は自分たちだと自負するまでになり、センスのいい映像を世界に発信している(日本の映像関係者は認めないかもしれないが)。


コンテンツ業界でそういう変化を見聞きしながら僕が実感するのは、(国の間の文化の違いがあることは前提とした上で)海外と日本の間で、CGや映像の制作技術の差はもちろんのこと、その背景にある作り手の「豊かさ」の差もどんどん縮まっている、ということだ。いや、すでに追い抜かれているかもしれない。(実は「しれない」という表現は、日本人としてそれを認めたくない気持ちの現れであって、本音ではすでに「追い抜かれている」と思っている)


これは、コンテンツ業界だけのこととも思えない。


上の記事からも読み取れるように、過去、日本の経済的繁栄を支えてきたのは日本人の勤勉さだ。勤勉さとは、真面目さと長時間労働の掛け算だと思う。つまり、人の資質と努力に頼ってきたのだ。

真面目さも労働時間も、当然限界があるわけで、ある豊かさから、さらに上に行くためには、社会全体の「構造転換」が必要になる。仕事の流れや流通のしくみといった経済構造の中から無駄を省き、それによって余ったリソースをまだ生産性が低い仕事の改善や新しい分野の開拓にむけることが、未来の豊かさの種になるのだ。


ところが、1980年代の終わりから1990年代初めに日本の経済が栄華を極めた後、長期間にわたる経済の凋落が続く中でも日本は、今までの大企業中心の(政治力を含む)「人力」に頼るしくみを大きく変えることはなかった。未来の豊かさに向けて新しい芽を育てることを怠ってきたのだ。その結果、現代の社会を支えている重要な分野ーたとえばコンピュータ・AI、携帯電話、自然エネルギーなどーも、日本は技術開発で先行していたにも関わらず、「社会実装」=すなわち、人々の豊かさに直結する最終フェーズで、その多くは撤退するか、遅れを取ってきた。コンピュータもスマートフォンもその他の新しい製品も、今や日本は海外製品のユーザーになってしまった。このことは、日本がすでに下請けになっていることの現れだ。


そして、まだ日本がかろうじて世界最先端にいると思われている分野—ロボット、材料開発などーも存在感はどんどんなくなっている。これは僕の憶測ではなく、その分野にいる専門家に聞いたことだから、そんなに間違っていないと思う。


こういう状況でも、日本はこの先も大丈夫、日本はまだ経済大国だ、と言える根拠がどこにあるのか、僕にはまったくわからない。



そして、もうひとつ「豊かさ」について考えなければいけないのは、豊かさは相対的なものだということだ。たとえば、1000年前の人々と比べれば現代人のほとんどは相対的に豊かなはずなのに、人々は今現在でも「俺は豊かだ」「私は貧しい」と感じてしまう。卑近な例で言えば、自分の年収は変わらなくても、隣の人の年収が増えれば、貧しく感じるのと同じことだ。


この記事でも「『相対的に日本だけがどんどん貧しくなっていっている』ように映っている」と表現しているように、貧富は相対的である。さらに言えば、経済というもの自体がある意味「相対的」なものだと思う。先進国だけでなく、アジアやその他の新興国の伸びよりも、日本の伸びが小さければ、それは「日本は貧しくなった」と実感されるだろう。さまざまな経済指標がある中で、どれを見るかで「豊かさ」は変わる。「貧富」は「幸福度」と同じく、最終的には人々の実感で測るしかない、と僕は思う。その意味で、日々豊かになっている、と感じる日本人はいったいどれくらいいるだろう?


「相対的に貧しくなっていく日本」について、僕が実感するのはそんなことだ。僕は経済の専門家ではない。けれども、古い下町で、小さな会社を経営者する身として、様々な属性の人たちと会っている方だと思う。そういう日々の体験からくる、危機感、といっていいかもしれない。


ただ、付け加えたいのは、日本がこれから海外の下請けになることは、そんなに悪いことではないとも思っている。なぜなら、海外の下請けになることによって、自分たちがおかれている環境を、より広い視野で客観的に実感できるし、たとえ下請けであれ、中小企業の多くが直接海外と取引するようになれば、意識は確実に変わると思うからだ。それは本当の意味での日本の「開国」につながるかもしれない。

そうなれば、制度疲労を起こしてもなお、ごまかしながら維持し続けている古い仕組みを破壊し、一部の人たちだけの豊かさが、国民全体の豊かさに変わっていく時代が来ると期待できる。


なお、僕は現存する社会の仕組みをすべて破壊しろ、とアナーキーなことを言っているのではない。人々の意識が変わり、真の「開国」が実現できれば、まずいものは自然に崩壊するし、逆に、良いものは海外に出ていくチャンスも増えるはずだ。そのような全体最適化が行われると期待しているのだ。

今行われようとしている、政府が旧来の利権と癒着し、恣意的に行う「自由化」は、真の開国ではないし、ほんものの豊かさにつながることではないと思う。トップダウン、すなわち政府主導の豊かさ改革ではなく、ボトムアップ、すなわち国民から自発的に産まれる動きを社会全体に広げる改革を一国もはやく実現しなければならない、と思っている。


最後に、僕が思う、もっとも恐ろしいシナリオは、将来、日本の豊かさが改善されない一方で、海外から日本へ下請けの仕事さえ来なくなり、日本が世界から孤立してしまうことだ。その状態は、庶民が「豊かか貧しいか」と評価することさえできない、まるで太古へ逆戻りしたような閉ざされた社会だ。そんな未来だけは避けたい、と強く思っている。